第21回 山梨谷村に勝山城跡を訪ね、句碑を眺める
込み合う河口湖行き電車を都留駅で降りた。
本日は山梨県富士急行沿線の街、都留市谷村から勝山城跡を巡る予定。
甲斐郡内地方の中心谷村は桂川の右岸に発達した街で、戦国時代は小山田氏が支配したという。
両側に山が迫り、街中も堰が音を出して走り、いかにも山合いの地である。その中に歴史の街が遺り、途中、古社らしい金山神社に石段を上がり参拝。富士急踏切、桂川を渡り、勝山城跡を訪ねる。
渓流では多くの釣り人が竿を出している。
勝山城跡
珍しく迷わずに、勝山城跡の南口に着いて坂道を上がる。早速遺構濠跡を示す標柱を見付けた。
下る家族連れと交差しながら山城を辿る。三の丸、二の丸となり、腰曲輪も見える。
谷村は、小山田信茂が勝頼を裏切って信長に処刑された後、北条氏、徳川氏、一時は豊臣氏が支配して、それぞれ谷村に城代を置いたという。その間淺野長政の家老氏重が城代となり、谷村城の詰めの城として、1594(文禄3)年に桂川の対岸に勝山城を築いたとされる。
山頂、本丸に上がると、広くはないがそれらしく削平地となっていた。将軍献上茶壺の貯蔵所や煙硝蔵があった跡があると知り、回ってみたが、現在では草むらであった。
谷村と芭蕉
城下町谷村は江戸期に芭蕉が一時滞在したことを知った。
案内に依れば、1682(天和2)年の江戸の大火で焼け出された深川在の芭蕉は、当地の領主秋元家家老で、弟子であった高山伝右衛門繁文(俳名麋塒ギジ)の薦めに応じて、5ケ月間逗留したという。
そのためそちこちに句碑が建つ。中でも次の句が興味を惹いた。
”
山賊の おとがい閉ずる むぐらかな”
(あたり一面に雑草の葎がはびこっている甲斐山中で、下あご(おとがい)を閉じて無愛想な樵に逢ったさまを詠んだものとの解説)。小さな山峡の町を時計回りに、西涼寺、東漸寺、円通院、桃林軒と巡った。桃林軒は芭蕉が過ごした高山家の離れで、再建されていた。
城山から谷村駅へ下りると、電車は1時間待ち。略図片手に谷村城跡を訪ねたら小学校グランドの隅に石碑のみが建っていた。駅前城南公園には、芭蕉が野ざらし紀行の途中立ち寄り詠んだ
”
行く駒の 麦に慰む やどりかな”の句碑があった。
(2010/5/2歩く)