第10回 奥武蔵山中に眠っていた大築城
大築城跡は、城跡巡りを始めた初期の頃には存在を知っていた。中山権四郎著「城跡ハイキング」(新ハイキング社)に掲載されていた。
越生駅から黒山三滝行きバスに乗り麦原入口下車。越生町麦原までは一度歩いたコース、たんぽぽの咲く道を行くと山間の小さな集落麦原は相変わらずだ。築城に携わった人夫達が住み着いた地と伝えられるという。
先ずは住吉神社に入山の挨拶をして、城跡への登山口を目指した。最奥家屋の先に城山口の案内標識を確かめて、山中に入る。一旦下って上り切った先に城跡内の表示板を見付けて休憩。後にこの辺りが‘もろどの郭’の筈と知って悔やんだが、それらしき痕跡は見当たらなかった。標識に従い狭い山道から城内を進む。突然山頂への直登の道となり、竪壕跡だろう。腰郭の辺りに出ると目の前に空壕跡が現れ、見上げる程の深い壕が郭間を切断している。更に上部の主郭と次郭との間の空壕も同様で、土塁間には虎口も確認できた。
異説もあるが、大築城は、天正年間(1573-1592年)、後北条の家臣武蔵松山城主上田能登守朝直が、後北条氏が都幾川在慈光寺を攻めた時に、最前線基地として築城したとする説が有力で、本郭跡にある都幾川村の案内もそのように説明してあった。素人目でも、位置や地形、縄張りからして、北方の敵に備えた砦であって、本格的な城とは思えない。それにしても深い空壕で堅固な備えである。山頂に沿って、縦長に3つの郭が連なる城跡は狭く、周囲は樹木に囲まれて展望はない。北の方向一里先に慈光寺が確認できたというが現在では無理のようだ。珍しく城内で同好の士に出会い簡単に挨拶を交わす。先程入口付近で追い抜いた男性とは違う人だ。都幾川村椚平から上がって来たという。小生を含めていずれも年輩者で共通している。
小憩後、反対側に下って猿岩峠から、あわよくば飯盛峠へ抜けたいと思って出発。獣道程度の急坂を幹や枝に掴まりながら降り続け、ようやく尾根に出ると、木立の間に椚平の家々が見えた。猿岩峠は麦原と椚平を結ぶ小さな交差路で、直行先は硯水、馬場とあり、飯盛峠方面の案内はない。硯水とは井戸跡であった。大分離れてはいるが城の水の手を引き受けていたに違いない。馬場は更に先で、現在では平らな山道程度の地がそうであったのであろう。しかし、期待した飯盛峠やグリーラインへのルートは、赤布程度の目印も見当たらず、仕方なく諦めて麦原へ戻ることにした。
(2004/4/3歩く)