thomsonbrandy.jp 2.0.7(2008-10-18) トムソンブランディ事業部

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古のロマン・城跡探訪記

第4回 悲劇の名残は跡形もなく・・・原城址

原城址は遠かった。

前日福岡での公開講座終了後出発し諫早市宿泊となった。翌早朝に駅前ホテルを出て、島原鉄道に乗車。単線地方鉄道は市街地から田園地帯を走って、左手に海が見え始めた。これが有明海と気付いた。
このまま原城址駅までの予定であったが、今春島原駅より先は廃止となったと知る。現在でバスがあるらしい。約1時間半で島原駅到着。
当地は再訪で駅前から二度目の島原城を眺めた。バスはのろのろと島原半島の先端へと向けて進む。ローカル電車内で缶麦酒片手に、のんびり海を眺め古城跡へロマンを馳せながらの旅を想定していたが果たせなかった。
一時間強を要しバスを降り、海辺の高台へ向けて城跡を目指す。

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1637(寛永14)年島原の乱は勃発した。
島原藩松倉氏の圧政に耐えかねた周辺の農民達が蜂起し一揆軍となって藩兵を打ち破り、鎮圧軍の進攻に対して3万の民衆達が原城に立て籠もった。
総大将天草四郎時貞は余りにも有名である。幕府は追討軍を繰り出したが攻めあぐねている内に責任者板倉重昌が討ち死にするという事態が生じてしまった。援軍の江戸出発に恥じたと言われる。
幕府軍は老中松平信綱以下12万4千の軍勢で包囲し、籠城に対し兵糧攻めで対抗して、遂には翌年2月末の総攻撃で陥落させた。宗教で堅く結ばれた農民側の抵抗も幕府総力戦の前には約3月で終了した。

城下に着いて、本丸跡へと上がる。
時貞の像が建ち、戦死者の墓も並ぶ。前方には二の丸跡や三の丸跡等が展開している。時貞達より幕府軍はウンカの如くの大軍に見えたに違いない。反対側は崖で青い海が美しい。
幕府はオランダ商館に依頼して、海上から大砲を撃ちかけたという。
しかし、カラッと晴れた南国の半島先端の地は過去の辛酸な悲劇を消し去っていた。

土曜日なのに人数も僅かで、遺跡ではあっても観光地ではない。
本丸を出てしばし周囲を彷徨してバス停へと戻った。
途中、戦死した幕府軍の将板倉重政の墓があった。彼は三河以来の徳川家譜代であり京都所司代を務めた家系の一族で、子孫が丁重に祀ったようだ。
バス停側には島原鉄道の廃線跡が続いていた。

再びバスで島原へと戻り、ホテル内温泉を戴く。今朝島原鉄道車内で入浴券付一日バス券を入手した。買い直しを許してくれた車掌さんに感謝。真昼の温泉は一人で、湾内の景色を楽しみながら、汗を流して湯に浸かり手足を延ばした。午後は長崎市へと出て出島見物を考えていた。しかし、全く反対側で諫早市へ戻る必要があると知った。そう言えば、前回は熊本市からフェリーで島原へと回ったことを思い出した。 昼食後、僅かな土産を買い求めて、空港行きのバスに乗り込んだ。                 

                                       (歩いた日:2008年10月18日)